เข้าสู่ระบบどういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。
しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。
私は貴婦人である。
相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。
何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。
実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。
恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。
彼らを使うのにも、すっかり慣れた。
二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。
体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。
召使を呼んだ。
「風呂に入りたいのじゃ」
「はい。準備して参ります。しばし、お待ちを」
やがて、先ほどの召使がやって来て、私の前にかしずいた。
この召使はよく目にする。私専用の係なのか。
顔こそ違うが、背恰好が現世の夫に似ていた。
夫似の召使だ、と心中で思った。
「梅皇貴妃。こちらへ」
廊下を通り、天井の高い大きな部屋に入った。
人が十人以上入っても、ぶつからないくらいの広い空間だ。
窓は中国風の装飾飾りで区切られている。赤や緑、金色で塗られている。
梁や天井も、中国風の細かな彫刻と飾りが施されている。
実に贅沢な浴場である。
その部屋には、石組みの浴槽が一つあった。
「ここにお立ちくだされ」
「そうか」
召使は大きな浴場内の中央にある、小型の建物に誘導した。建物内の建物だ。
四本の赤い柱で支えられた、小型の屋根付き建物。
「この小さな建物はなんという?」
「これでございますか。
「よんちゅう、てい?」
「さようで。四つの柱に支えられた『亭』にございます」
「さようか」
私は四柱亭と呼ばれる屋根付き建物の中心に立った。
部屋の中にさらに屋根付き建物を配することが、いかにも中国っぽい。
召使は大きな桶二つと無地の
桶に張った水から湯気が立ち上っている。
どこかで水を焚いたのだろう。
彼らは俯き、床を見ていた。
片膝をついて、何かを待っている。
「衣服をお脱ぎくだされ」
あ、そうか。たくさんの人がいて、いろいろ準備をしているので、私自身がすることを忘れていた。
「うむ。分かった。待っておれ」
私は帯に手をかけ、スルスルスルと着物を脱いだ。
脱いだ衣服は、女官が素早い動きで回収した。
男の召使たちは全員後ろを向いていた。
裸で湯船につかる。
なみなみと湯船に張られた湯が気持ちよい。
一人の召使が後ろを向き、片手だけを前に差し出した。
「それをお使いくださいませ」
「何じゃ、これは」
「香料にございます。皇貴妃のお好みの香りと聞いております」
私はそれを受け取り、粉状のそれを浴槽に入れてみた。
手でもって湯をかき混ぜた。
すぐに芳香が漂った。
たしかに、いい香りである。
ジャスミンのような、強い花の香りに近い。
ここに転移する前の、梅皇貴妃が好んだのか。
それなら、間違いなかろう。
これはいい。
いい香りのする湯は心と体をさらにほぐした。
ひところ、現世ではやったバスクリンやバブを思い出した。
当時、夫に先に入浴させ、夫の出た後の浴槽に入浴剤を入れた。
よい香りを独り占めにするのが、ささやかな私の楽しみだった。
今は、それ以上の快楽を味わっている。
湯とかぐわしい香りの作用で、肌がとろけるようだ。
片手で湯をすくい、腕に流しかけた。
しばらく何も考えず、のんびり過ごした。
心までとろけ、満足した。
「お湯加減、いかがですか」
「も少し、温かくてもよいぞ」
「わかり申した」
家来は桶に張った湯を、浴槽の端から慎重に注ぎ入れた。
さすがに、浴槽内の湯をかき混ぜるまでのことは家来にできない。
足された湯をゆっくりかき混ぜ、温度が均一になるようにした。
「これでいかがでしょうか」
「ちょうどいいわ」
しばらくは、時のたつのを忘れた。
外は見えないけれど、広い空間に私とお付きの者だけ。
なかなか気持ちのいいもんだ。
こんな入浴ができるのなら、毎日したかった。
しかも、昼間から一人で湯船を独占して、じつに優雅な時間である。
と思っていたら、そうも行かなくなった。
だれかが来た気配がした。
だれか、他の高貴な人。
その人は人払いをした。
別の召使がかしずく様子が、風呂の湯気に透けて見えた。
その高貴な人が、これから入浴するのか。私の後に。
そんな風に思っていたら、新たな展開に入った。
白い肌を見せて、高貴とおぼしき人が湯船に近づき、私に声をかけた。
「梅皇貴妃、入りますよ」
「は、はい」
いい香りがしたかと思うと、石の浴槽に小波が立った。
高貴な夫人が私の隣で湯に浸かった。
ちょうど向かい合う形で、二人は同時に入浴をした。
「皇貴妃ですか」
私は訊ねた。相手の身分が分からない。
とりあえず、同じ身分で呼んでやれ、と。
「いいえ。梅皇貴妃。お忘れになられては困ります。私は皇后ですよ」
「皇后陛下!」
驚いて開いた口を手で隠した。
王宮の婦人ではいちばん偉い人だろう。
その人が途中から入浴し、私に声をかけたのだ。
とにかく、驚いた。と同時に、恐れ入った。
でも、私だって皇貴妃の身分。おそらく二番目くらいだろう。
もう少し、情報がほしかった。
「陛下はどうされてますか」
「皇帝のことか。皇帝は昼寝をしておられる」
皇后は私にそう説明した。
やはり、皇帝もこの広い屋敷におられ、まだ私と対面してないのだ。
新しい情報と出会いがあり、この入浴も意味があった。
「では、皇后。私はお先に」
おもむろに浴槽から出た。
出るときに、皇后の背中を見た。
皇后は背中も綺麗で、スベスベした肌つやをしていた。
タオルはどこだろうと思う前に、ひんやりした石の床に敷いた布の上にきれいなタオルが置かれてあった。
薄い着物を着た二人の女官が現れ、タオルを手にして私の体を二人がかりで拭いてくれた。
他人に拭かれるなんて、子どもの頃以来の贅沢だ。
ぬふふふ。口から小さな声が漏れ出る。
女官は後ろを向いたままの召使から衣服を受け取り、裸の私に白い下着と橙色の着物を着せた。
着物を着て、その部屋を出るとき、召使が両膝をついて申し出た。
「今日の着物の選定は、私めがいたしました」
召使の一人が大きな声を発した。
さきほどの、背恰好が夫に似た召使である。
鼻の下に、立派な口ひげをたくわえている。黒くて長い口ひげを生やしていた。
橙色の着物はどこで手に入れた、と口から出かかり、やめた。
私は思い直して、いちおう褒めてみた。
「さようか。まずまずじゃな。よかろう」
私の褒め言葉にその召使は頭を下げ、その頭と同じ高さまで両腕を組んで掲げた。
「ははー。ありがたきお言葉」
ここまで敬意を示されると、くすぐったい。
扱いとしては、皇帝に等しい。あるいは、皇后と同程度なのかもしれない。
そう言えば、皇帝にまだお目にかかれてない。
「まあ、そのうち会えるだろう」
心の中で思った。
橙色の着物を着て、長い着物の裾を引きずるようにして廊下を移動した。
私は死んだと確信した。死ぬ寸前に士良がチョーとダブり、「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」と恨むような目つきで言う姿が、おぼろげに頭に浮かんだ。そのイメージが死ぬ直前の私をいたぶった。これだったのか。気づいても、もう遅かった。郭貴妃が袖で口元を隠して笑っている。この人には負けなくない。悔しい。劉妃が蔑むように目を細めて私を見つめ、こちらを指さしている。この女にはいつか復讐してやる。私を罵倒し、おかげで流産した。あの流産さえなければ、今頃私が王宮の権力を牛耳られたのに。腹立たしい。皇后の妹が腰に手を当てて顎を突き出している。その女と激しく言い争った覚えばないが、三大勢力の一角である。あとから勢力に加わり、迷惑だった。本当に図々しい。それぞれの女が代わる代わる闇の中に登場し、私を嘲笑っている。真ん中に郭貴妃がおり、右隣りの劉妃が郭貴妃の肩に手を回し、左の皇后の妹は郭貴妃の腰に手を回している。三大悪女! この女たちさえいなければ、私が命を落とすことはなかったはず。みんな消えろ! 消えてなくなれ!急に風が吹いた。三大悪女は風にかき消されるようにして消えた。彼女らの立っていた場所に龍と虎と一本角の麒麟が出現した。どれも強そうな野獣である。三頭の野獣のうち、虎が牙をむいて襲って来た。その牙で私の体を引きちぎった。休む間もなく、龍の胴体が体に巻き付き、グイグイと締め上げた。挙げ句の果てには麒麟の強靭な後ろ足で鳩尾あたりを思い切り蹴られた。三頭の攻撃で、私の体はバラバラになった。肉の塊が四方に飛び散った。それが幻か悪夢なのかの区別がつかず、ただ苦しいという感覚だけが強く意識に残った。気づくと、三大悪女や三頭の野獣はどこにもいなかった。意識は宿るべき肉体を失い、虚空をあてもなく浮遊した。浮遊する意識は、グニャグニャしながら形を歪めた。妙な感覚を保ち、意識は時空を彷徨った。暗黒の世界はなにもないのか。なににもぶつからず、移動を続けた。暗闇の上から泣き声が響いた。聞き覚えのある声──。それは、あの獅雷皇子の泣き声だった。泣き声はしだいに近づき、声が高くなった。そして、一瞬で通り過ぎ、意識の塊から遠ざかるにつれ、声は少し低く聞こえた。音が聞こえる
「それでさ。いま、王宮はたいへんなのよね」すっかりおばさんモードだ。おばさん同士の井戸端会議のノリで、私は相手を前に喋った。「ふむ。王宮がそんな風に混乱しているのですか。私はまるで知りませんでしたよ」相手は目を丸くした。「内輪の話だから、外へ漏れないのかもしれないけどさ。ちょっとしたスキャンダルよ。いま、こうしてあなたに喋るように、いずれ世間にも知れ渡るわ。王宮の世継ぎ争いの醜さが」目の前にいる崙伖は、お茶の器を握ったまま、ようやくそれに口をつけた。ゆっくりと茶を啜った。ここは、以前利用した茶楼である文人崙伖とこの場所で落ち合った。今夜の夕食は抜いてもらった。一人お忍びで、町まで足を伸ばした。「たしかに皇帝の位を狙おうとする人物が複数出てくるのは分かるし、興味深いですね。私の書く白話小説の題材に採り入れてみましょうかね」「そうよ。それ、いいわ。絶対に面白くて売れるわよ。何せ、現実ですら、ときに汚い、ときにあざとい言動が雅な王宮でまかり通るのよ。派閥が三つもあって、互いが牽制し合う。その力学で王宮の未来に黄色のランプが灯ったとかさ」「はて?黄色のランプとは?」崙伖は首を傾げた。「あ……、ああ。言い間違えた。黄色のランプじゃなくて、何て言うの? 危険な状況を味方に知らせる灯りのようなものって」「それを言うなら、天灯でしょうな。夜間に味方へ危機を伝える灯籠です。空へ飛ばす灯籠なので天灯と呼ぶのです」崙伖は文人らしく意味を解説してくれた。「さすが博識ね。その天灯よ。王宮の未来に暗雲が垂れ込め、危機を告げる天灯が夜空に放たれた。そんな場面って、小説に描いたら盛り上がるんじゃない?」「はい。それはもう書きがいがありますよ。次の次くらいに、それを使わせてもらいますよ」崙伖は懐からくしゃくしゃになった雑紙を出し、それを丁寧にテーブルの上に広げた。携帯している袋から出した筆で、言葉をサササッとメモした。こんなに興奮して喋る美女を前にして、文人というのは如才なく会話をかわし、隙あらば自らの仕事にいかそうとする。ある意味で尊敬に値する。「私もね。こう見えて、皇帝のお子を産んだのよ。獅雷皇子と名づけたわ。獅雷皇子はね。竜光皇子や双渦皇子よりも優秀なの。キリリとした眉に可愛らしい口元で、こう言うの。『この名前はなに?』とか、『どうして空は青いの?』
「梅皇貴妃。私です」夜に男の人が訪ねて来た。それだけでちょっとうれしい。自室にいた私は招き入れた。「どうぞ。入って」声でわかった。恭郡王である。「お久しぶりです。お元気でしたか」恭郡王が訊ねる。「私は変わらず元気よ。恭郡王も元気そうね」「はい。どうにかして梅妃とお会いしたかったのですが、諸事情が許さず、こうして今夜になりました」「別にいいのよ。気にしてないわ」「それにつけても、王宮内は三つのグループに分かれ、世継ぎの座を争っておりますな」「ええ。私もそのグループの一員よ」「かねてから、私が何か梅妃のお力になれたらと思っておりました。直接お会いしたかったのです」恭郡王は私に会いに来た理由を明かした。「うれしいわ。恭郡王にそこまで思ってもらえるのなら。そこにいて話を聞かれるとマズいわ。もっと近くにいらして」恭郡王を私の座る近くに呼び寄せた。彼の上品で涼し気な顔が近づく気配がした。自室の灯りは消していた。暗がりで男がそばに来て、つい手が彼の顔に伸びた。私は彼の頬に手を当て、優しく撫でた。自分の顔をさらに近づけ、目を閉じた。二人は接吻した。甘美な口づけがあの晩を思い起こさせた。冷めていた愛が再燃するのか、と半分期待した。唇を離すのが惜しかった。恭郡王の方が口づけを終わらせた。互いに沈黙し、私は長い髪を触った。所在なく着物を手で撫で、相手の出方を窺った。暗い中、二人の男女はじっとしていた。恭郡王はとくに何もしてこない。ただ、暗い部屋でかすかに彼の息が音を立てた。どうしてよいかわからず、何か言おうとして言いあぐねた。意を決し、口を開いた。「恭郡王にどこまで話したかしら? 私の身の上を」「そうですね……。私自身の話ばかりしましたね。梅妃の過去は宮廷内の噂程度にしか存じませぬ」そうだった。競渡で舞い上がった私は、彼を質問攻めにし、イケメンをぐいぐいと自分の領域に引きずり込んだのだった。「じゃあ、最初から話すわ」「わかりました。話せる範囲でどうぞ。私はただ聞いております」「私は王宮の第二夫人として、皇帝の寵愛を受けていたわ。それで幸せだった。その状態がずっと続く。幸せな日々を送れる。そんな風に思ったのが間違いよね。悪い召使は私に目を付けた。私を唆し、私は窃盗罪で地下牢に幽閉された」「ああ、れいのあの事件ですね」
三人の皇子は生まれながらにして、皇帝の世継ぎ争いという看板を背負わされた。竜光皇子、獅雷皇子、双渦皇子。郭貴妃がいて、私がいて、皇帝の妹がいる。だれも譲らなかった。三人の母親は、懸命に我が子──郭貴妃の場合は従妹の子だと噂されたが──を王宮内でアピールする日々が続いた。皇帝はまだ若い。現実的に皇帝の位を禅譲するのは何十年も先の話だ。ただ病没や戦死の可能性がある以上、万一の事態に備えて次を決めるには、早いに越したことはない。三皇子の乱立で、その判断が難しくなった。世継ぎ問題は混迷を極めた。はたして、皇帝は三人の子を我が子だと思っただろうか。それを確かめる機会もなくはなかったが、面と向かって訊きづらかった。三皇子が皇帝の本当の子どもなのか。それは重要であるにもかかわらず、真偽の事実さえ確たる証拠もなく、判断のしようがなかった。各人の思惑が絡み、王宮は揺れた。皇帝はその状況に対して、昼夜を問わず悩まれた。深く嘆いていた。皇帝を世話する召使たちの口から何度も聞いた。「どうしたものかなぁ。朕の世継ぎだなどと、三人の女たちがかまびすしく主張して」皇帝はお付きの召使にそんな風にこぼした。私は違う召使からその話を人づてに耳に入れた。皇帝の悩める姿を慮ると、たいそう哀れで心が痛んだ。皇帝は自室に私を呼んだ。私は床に伏せた。「梅妃よ。おまえも三皇子問題の渦中の人物じゃな。朕は深く憂慮しておる。三人の皇子がすくすくと成長して大人になったとき、互いをどう思うのか」「さようにございますね。私は自身の皇子がすんなりと皇帝の座に就くとは思っておりませぬ。親の贔屓目であっても、やはり三人、いや白虎王子も含めた四人の中で、いちばん思慮深く、賢明で、文武に秀でた人物。国を治めるのにふさわしい器の持ち主が、次の皇帝として選ばれるべきだ。そんな風に思います」「そうじゃな。朕もそのように思う。そうなるのが筋で、もっとも王宮内で支持され、国民も納得するはずじゃ。しかし、物事は得てして理想通りに行かない。今の乱立状態がすぐに解消される見込みはないし、王宮内の過熱ぶりに朕はうんざりしておる」「お気持ち、お察しします。もう少しの辛抱です。いつ収束するのか、私にもわかりませぬが、皇帝は皇帝らしくあられませ。それがいちばんでございます。常に気高く、主君としての
郭貴妃の竜光皇子に、私の獅雷皇子。王宮は白虎王子をさしおいて、二番目と三番目の皇子のどちらが世継ぎ競争を勝ち抜くかに注目が集まった。互いに皇帝の子ではないのに、それだからこそよけいに熱を入れた。それぞれの男児を次の皇帝にし、ゆくゆくは最高の絶対権力を手に入れ、王宮をほしいままに支配したい。執念と野望。それに燃える私たちは、周囲も巻き込んで激しく火花を散らした。廊下で鉢合わせれば、当然のようにケンカを売った。「ちょっと。向こうへ行くのよ。邪魔だわ。どきなさいって」私は郭貴妃に噛みついた。「何よ。そちらこそ、どいたらどう? 私には大切な用事があるのよ」「どかないわよ。どくもんですか。そっちが先に下がるか、わきによけなさいよ。どちらの位が上だと思ってるの? 第二夫人に命令するな」「はあ? この際、身分の上下なんて意味をなさないのよ。そもそも、竜光皇子が先に生まれたのよ。先に生まれたグループに優先権があるわ。早くどいて。蹴り飛ばすわよ」郭貴妃も口では負けてない。両者は前に進み出た。顔を近づけ、ガンを飛ばした。あなたが召使の元愛人で、クーデターを成功させるために色仕掛けで皇帝を唆そうとした悪女よ。その黒歴史は塗りつぶせないわ。心の中で彼女をなじった。二人が睨み合ってると、二人の皇子が泣き出した。若い女官の腕に抱かれた獅雷皇子は、廊下中に響くくらいの大声で泣きわめいた。一方、別の女官があやしていた竜光皇子も獅雷皇子に負けないくらいの鳴き声を上げ、周囲をうろたえさせた。「見なさいよ。あなたが意地悪するから、うちの皇子が泣いてるじゃないの。責任とりなさい」郭貴妃の顔をビシッと指さした。「私、意地悪をした覚えはないわ。なによ、責任って? 笑わせるわ。そちらが無茶を言うから、竜光皇子が泣き止まないのよ」そこへ皇后が通りかかった。郭貴妃の周囲の人たちは通路をあけ、私たちも廊下を皇后に譲った。皇后は私のところを通り過ぎたあと、こちらを振り返って諭した。「無駄な勢力争いで王宮を騒がせないでちょうだい。賢明な皇帝陛下がしかるべき時期に次の皇帝をお決めになる。私はそんな風に思ってます。赤ん坊を泣かせてまで意地を張り合う親は母親失格ですよ。もっと子どもを慈しみ、深い愛情を注ぎなさい」皇后にしては珍しく感情を表に出し、二人を𠮟
確たる証拠はないが、きわめて怪しい臭いのプンプンする皇子が誕生した。郭貴妃が産んだとされる竜光皇子である。王宮のあちこちで、郭妃と竜光皇子に関する噂やデマがまことしやかに語られた。私は、皇帝の従兄にあたる恭郡王に、夢の中で抱かれた。恭郡王は、たしかに王宮にいる実在の皇族だ。食堂で見かけたことはあるが、近くで話をした覚えはない。なぜ、いま、恭郡王の存在が──。私の夢にそのような人物がでてくる。夢だから理由は不明だ。また何かの暗示なのか、と首をひねりたくなる。恭郡王は長身のイケメンだ。皇帝も若くてイケメンだが、顔について言うならば、恭郡王の方がワンランク上である。「もし近くに来たら、こちらから話しかけてみようかしら」私の中のいけない気持ちが、重い車輪のゴロリと転がり出すように、のそのそと動き始めた。私の気持ちは出会いを引き寄せた。恭郡王に話しかけたのは、彼の夢を見てから一週間後だった。ちょうどその時期に、華やかな催しが外で行われた。競渡(ドラゴンボートレース)である。王宮の裏に広大な池がある。金琉池である。金琉池の上にロープを張り、その中で龍をかたどったボートを浮かべ、スタート地点から池の端まで行って折り返し、グルッと反転して元の場所へゴールする。それを数艇のボートで勝負を決める競走である。池の外では、楽団が太鼓やドラをにぎやかに打ち鳴らす。長いボートに乗った二十数人の男たちが、櫂でボートを一斉に漕ぎ出し、ゴールするのを競う。ちょうど現世でいうところのペーロン祭である。私もそのレースを池の手前で、かぶりつきで見物した。ボートにはそれぞれに色の旗をつけていた。どれでもよかったが、私は緑色の旗をつけたボートを応援した。「頑張れー! ファイトー!」池の水面を男たちの乗ったボートが滑るように進む。猛烈な勢いで櫂を合わせて必死に漕ぐ。その勇姿に感動し、エールを送った。それぞれのボートはとても長い。まっすぐに漕がないと横を走るボートに接触してしまう。しかし、漕ぎ手はみな慣れたもので、各ボートを真っ直ぐに進めた。ボートはスイスイと速く進んだ。応援していると、ふと気づいた。私の隣の隣に恭郡王がいるではないか。「チャンス!」心の中でガッツポーズした。この世界に来てから、こんな風に理想の恋愛をいくつしただろう。それを追い求める体質
鳥が額にぶつかって、気を失った私──まったく、そんな偶然が起きるものなのか?いたって平凡で、それまでは変わったことなど何も起きなかった私。正月に縁起がいいモノと言えば、一富士、二鷹、三なすび。あの鳥は鷹。そうではなく、もっと小さかった。小さいけれど、鋭い加速だった。私を獲物と勘違いしたみたいに、まっしぐらに飛んできた。うん。ぶつかる前のことをちゃんと覚えている。私は、何もかもを失ったわけではない。記憶がしっかりしてる。ちゃんと命もある。体も五体満足で、手足も動くし、顔も首も、上下、左右に動く。恐る恐る、手を額に持って行く。ちゃんと、額はあった。ちゃんとあるし、穴
悪い夫にはどこかで罰が下る。そう思う私は愚夫の妻。どこにでもいそうなありふれた女だ。そして、夫も平凡を絵に描いたような、普通の会社員である。夫の性格は悪い。「このクズ野郎!」私は夫に怒りをぶつけた。「なんだと。だれが稼いで飯が食えてると思ってる?」夫は居直った。「はあ? 何様のつもりなの? つまんねぇ昭和の台詞ね」「つまらなくていい。こっちには仕事があるんだ。おまえを養う義務もな」「思い上がっちゃって。そんなんで、よく浮気したわね」「浮気はしてないよ」夫は平然と否定し、首を振った。「嘘つけ! 私には分かるわ。シャツにいつもと違う香りがしたのよ」「だから言ってるだろ? 帰
「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。中国の王宮は静寂を好むのか。騒がしさとは無縁のようだ。「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。姿は現生の私とほぼ変わらない。現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。夫似の召使にそそのかされた。皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちな
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし