LOGINどういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。
しかも、都合よいことに、皇貴妃という身分にあるのだから、とても嬉しい。
私は貴婦人である。
相手として対象になる人がいるなら、それは皇帝をおいて他にいないだろう。
何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。
実際、女官に服の着替えや、ベッドメイクをしてもらった。
恥ずかしかったが、トイレを頼んだときもあった。
彼らを使うのにも、すっかり慣れた。
二十畳ほどの広い部屋に一人ぽつんといると、ちょっと寂しい。
体に少しむずがゆさを感じ、入浴したくなった。
召使を呼んだ。
「風呂に入りたいのじゃ」
「はい。準備して参ります。しばし、お待ちを」
やがて、先ほどの召使がやって来て、私の前にかしずいた。
この召使はよく目にする。私専用の係なのか。
顔こそ違うが、背恰好が現世の夫に似ていた。
夫似の召使だ、と心中で思った。
「梅皇貴妃。こちらへ」
廊下を通り、天井の高い大きな部屋に入った。
人が十人以上入っても、ぶつからないくらいの広い空間だ。
窓は中国風の装飾飾りで区切られている。赤や緑、金色で塗られている。
梁や天井も、中国風の細かな彫刻と飾りが施されている。
実に贅沢な浴場である。
その部屋には、石組みの浴槽が一つあった。
「ここにお立ちくだされ」
「そうか」
召使は大きな浴場内の中央にある、小型の建物に誘導した。建物内の建物だ。
四本の赤い柱で支えられた、小型の屋根付き建物。
「この小さな建物はなんという?」
「これでございますか。
「よんちゅう、てい?」
「さようで。四つの柱に支えられた『亭』にございます」
「さようか」
私は四柱亭と呼ばれる屋根付き建物の中心に立った。
部屋の中にさらに屋根付き建物を配することが、いかにも中国っぽい。
召使は大きな桶二つと無地の
桶に張った水から湯気が立ち上っている。
どこかで水を焚いたのだろう。
彼らは俯き、床を見ていた。
片膝をついて、何かを待っている。
「衣服をお脱ぎくだされ」
あ、そうか。たくさんの人がいて、いろいろ準備をしているので、私自身がすることを忘れていた。
「うむ。分かった。待っておれ」
私は帯に手をかけ、スルスルスルと着物を脱いだ。
脱いだ衣服は、女官が素早い動きで回収した。
男の召使たちは全員後ろを向いていた。
裸で湯船につかる。
なみなみと湯船に張られた湯が気持ちよい。
一人の召使が後ろを向き、片手だけを前に差し出した。
「それをお使いくださいませ」
「何じゃ、これは」
「香料にございます。皇貴妃のお好みの香りと聞いております」
私はそれを受け取り、粉状のそれを浴槽に入れてみた。
手でもって湯をかき混ぜた。
すぐに芳香が漂った。
たしかに、いい香りである。
ジャスミンのような、強い花の香りに近い。
ここに転移する前の、梅皇貴妃が好んだのか。
それなら、間違いなかろう。
これはいい。
いい香りのする湯は心と体をさらにほぐした。
ひところ、現世ではやったバスクリンやバブを思い出した。
当時、夫に先に入浴させ、夫の出た後の浴槽に入浴剤を入れた。
よい香りを独り占めにするのが、ささやかな私の楽しみだった。
今は、それ以上の快楽を味わっている。
湯とかぐわしい香りの作用で、肌がとろけるようだ。
片手で湯をすくい、腕に流しかけた。
しばらく何も考えず、のんびり過ごした。
心までとろけ、満足した。
「お湯加減、いかがですか」
「も少し、温かくてもよいぞ」
「わかり申した」
家来は桶に張った湯を、浴槽の端から慎重に注ぎ入れた。
さすがに、浴槽内の湯をかき混ぜるまでのことは家来にできない。
足された湯をゆっくりかき混ぜ、温度が均一になるようにした。
「これでいかがでしょうか」
「ちょうどいいわ」
しばらくは、時のたつのを忘れた。
外は見えないけれど、広い空間に私とお付きの者だけ。
なかなか気持ちのいいもんだ。
こんな入浴ができるのなら、毎日したかった。
しかも、昼間から一人で湯船を独占して、じつに優雅な時間である。
と思っていたら、そうも行かなくなった。
だれかが来た気配がした。
だれか、他の高貴な人。
その人は人払いをした。
別の召使がかしずく様子が、風呂の湯気に透けて見えた。
その高貴な人が、これから入浴するのか。私の後に。
そんな風に思っていたら、新たな展開に入った。
白い肌を見せて、高貴とおぼしき人が湯船に近づき、私に声をかけた。
「梅皇貴妃、入りますよ」
「は、はい」
いい香りがしたかと思うと、石の浴槽に小波が立った。
高貴な夫人が私の隣で湯に浸かった。
ちょうど向かい合う形で、二人は同時に入浴をした。
「皇貴妃ですか」
私は訊ねた。相手の身分が分からない。
とりあえず、同じ身分で呼んでやれ、と。
「いいえ。梅皇貴妃。お忘れになられては困ります。私は皇后ですよ」
「皇后陛下!」
驚いて開いた口を手で隠した。
王宮の婦人ではいちばん偉い人だろう。
その人が途中から入浴し、私に声をかけたのだ。
とにかく、驚いた。と同時に、恐れ入った。
でも、私だって皇貴妃の身分。おそらく二番目くらいだろう。
もう少し、情報がほしかった。
「陛下はどうされてますか」
「皇帝のことか。皇帝は昼寝をしておられる」
皇后は私にそう説明した。
やはり、皇帝もこの広い屋敷におられ、まだ私と対面してないのだ。
新しい情報と出会いがあり、この入浴も意味があった。
「では、皇后。私はお先に」
おもむろに浴槽から出た。
出るときに、皇后の背中を見た。
皇后は背中も綺麗で、スベスベした肌つやをしていた。
タオルはどこだろうと思う前に、ひんやりした石の床に敷いた布の上にきれいなタオルが置かれてあった。
薄い着物を着た二人の女官が現れ、タオルを手にして私の体を二人がかりで拭いてくれた。
他人に拭かれるなんて、子どもの頃以来の贅沢だ。
ぬふふふ。口から小さな声が漏れ出る。
女官は後ろを向いたままの召使から衣服を受け取り、裸の私に白い下着と橙色の着物を着せた。
着物を着て、その部屋を出るとき、召使が両膝をついて申し出た。
「今日の着物の選定は、私めがいたしました」
召使の一人が大きな声を発した。
さきほどの、背恰好が夫に似た召使である。
鼻の下に、立派な口ひげをたくわえている。黒くて長い口ひげを生やしていた。
橙色の着物はどこで手に入れた、と口から出かかり、やめた。
私は思い直して、いちおう褒めてみた。
「さようか。まずまずじゃな。よかろう」
私の褒め言葉にその召使は頭を下げ、その頭と同じ高さまで両腕を組んで掲げた。
「ははー。ありがたきお言葉」
ここまで敬意を示されると、くすぐったい。
扱いとしては、皇帝に等しい。あるいは、皇后と同程度なのかもしれない。
そう言えば、皇帝にまだお目にかかれてない。
「まあ、そのうち会えるだろう」
心の中で思った。
橙色の着物を着て、長い着物の裾を引きずるようにして廊下を移動した。
気づくと私は伸びていた。そこはベランダの手前。床に仰向けになり、白い天井が見えた。床の先の掃き出し窓は開いていて、冷たい風が入り込む。風は乾いてとても冷たい。起き上がって、窓を閉めた。「こ、これって……」そこは前前世の私の家。梅本香里の住む家だった。その当時の記憶が今、つながった。前の晩、夫の浮気が原因で夫とケンカをした。翌朝、互いに無視したままで朝の支度をした。夫がUSBメモリを忘れ、そこでもひと悶着。嫌な夫が出社し、やれやれとラジオをかけ、紅茶を飲んでほっこりした。「そうよ。ラジオと洗濯物」ラジオの音がようやく耳に入った。「今朝、こんなニュースが飛び込んできましたね。一月八日の午前七時半。ついさっきです。都内のビル工事現場で強風が吹きました。強風によって看板が落ち、下を通る歩行者の体に当たりました。リスナーの皆さん、くれぐれも風の強い日は気を付けてくださいね。歩行者はケガをしましたが、警察によると軽傷とのことです。では、ここで音楽のリクエストをかけましょう──」そうよ。このDJの声。このラジオを聴きながらベランダに出た。洗濯物を干そうとして、鳥が額にぶつかった。今、たしかに元の体に戻っている。梅妃や女官ヒナとして生きた記憶も残っている。そして、始まりと終わりのきっかけを作ったのは鳥。鳥が額にぶつかって気絶した経緯もはっきりと覚えている。「どうして、気絶して昔の中国王朝なんかでロマンスを経験したのかしら?」ひとり呟いても、だれにも時空の旅を説明できる人はいないだろう。あちらの経験は膨大な量の事件や思い出に基づいていた。それは心に深く根を張っていた。「ま、いいわ。危ない目に遭ったけど、ちょっと得した気分ね」異世界に転移と転生したのは事実であり、その事実は夫には緒にしておこう。私はほくそ笑んだ。床に落ちている洗濯物を拾い上げ、物干しざおに丁寧にかけた。干しながら、しみじみとあの思い出や出会った人物たちを思い返した。あんな経験、お金を払っても、そうそうできやしない。中世あたりの中国王宮。その第二夫人に転移して、豪奢な暮らしを堪能した。皇帝に抱かれ、純粋なロマンスにうっとりした。悪い召使の計略にはまり、罪を犯した。そして、地下牢に投獄された。救出され、召使のクーデターは失敗。悪い奴らは死んだ。生活
女官ヒナとして、まだ生きていける。私は安堵した。幻の芙楽の助けで、女官として生かされた。その先、芙楽が私の前に現れる機会はなかった。前世で彼を裏切った形なのに、死んだ彼は私を咎めなかった。不思議なもので、「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」という呪縛の言葉も、二度と頭に浮かばなかった。引き続いて王宮の仕事を続けた。李妃の部屋で着替えを手伝っていたとき、李妃からこんな風に言われた。「ヒナ。いくつになったの?」「私ですか? 十八です」「そう。今が女としていちばんいい頃ね。魅力的よ」「ありがとうございます」「その着物、ヒナに上げるわ」「え?この緑の着物でございますか」「そうよ。それ、もう飽きてしまったわ」「本当によいのですか」「いいわよ。私からの贈り物よ。明日暇を上げるから、町にそれを着て行くといいわ」「承知しました。ありがとうございます」私は李皇貴妃の着替えを手伝いながら、心の中はうれしさで一杯だった。李妃からいただいた緑の着物を大事に畳んで小脇に抱え、仕事の合間に配房で袖を通してみた。青銅鏡を立てかけた。鏡の向こうに映る、着物を着たもう一人の私。とてもきれいだった。すごいわ。これが私のなのね。みすぼらしい普段の着物とは全然話にならない。まるで格が違う。豪華でいて上品な女性に見せてくれる着物。うれしくて涙ぐんだ。親に見せてあげたい。一生ものの衣装だ。「これを着て、明日町を歩くのね。うれしいわ。天に舞い上がりそう」有頂天になり、その場で軽く飛び跳ねた。着物を大事に畳んで配房のタンスの抽斗に丁寧にしまった。とてもうれしくて、気分のいい状態は長く続いた。頼んでおいた自分の洗濯物を取りに、ある部屋へ向かった。その部屋に着いた。部屋で自分の着物を受け取った。部屋を出た。洗濯物を手にして配房に帰る途中だった。廊下を歩いていた。向こうの角に皇帝がいた。年老いた皇帝は背中を丸め、何かを眺めている。庭に舞い降りたのは、先日の鳥だ。「皇帝は長らくペットとして、隼という名の鳥を飼われている。そんな風に聞いていたわ。じゃあ、あの鳥が隼なのね」皇帝は隼を腕に止まらせ、パッと腕を上げた。空に舞い上がった隼は空を一直線に切り裂き、あっという間に高みへ上昇して見えなくなった。私はな
意識がブラックアウトした。少したった。周囲が明るくなり、気が付いた。「あれ?私、生きてるわ」気づいて、生存を認識した。つまり意識が私の体に戻っていた。「こんなことって、あるのかしら?ちょっと信じられないわ」芙楽に刺されたからこそ、意識が肉体から飛び出したのではなかったか?そこに芙楽も、天馬も、槍もなかった。すべてが消えていた。あの走馬灯の主役たちは、何だったのだろう。私は屋敷の廊下に倒れていた。まだ起き上がれないが、体はわずかに動く。呼吸もできる。手で顔や体を触ってみた。顔。体。健康そのもので傷一つない。結果的に、私は命拾いをした。代わりに、私を殺そうとした郭貴妃が倒れていた。うつ伏せの状態で倒れていた。彼女の背中には大きな傷があった。その傷から、大量の血が流れていた。一方の竜光皇子は口から血を吐き、ゆっくりと膝をついた。目を見開いていた。郭貴妃に折り重なるようにして、竜光皇子も倒れた。私は殺されると思っていたけれど、私の代わりに二人の悪い親子が絶命した。もしや──。幻である透明な芙楽は私を刺さずに貫通し、向きを変えて郭貴妃と竜光皇子を槍で突き刺し、あの世へ送ったのか。そうかもしれない。そうとしか言いようがない。私は凶器を持ってない。私が二人を殺したわけでないのは明白だ。二人は「私の守護神」に殺されたのだ。そんな風に自分を納得させた。「芙楽様。ヒナを守ってくれて、本当
殺された。だれも助けてくれなかった。そう思った。しかし、そんな風に思うのはまだ早かった。寸前で助かった。死ぬと思った刹那に、走馬灯が見えた。走馬灯は死ぬ間際で見るもの。その走馬灯の世界で、空から何かがこちらに向かって来る。鳥、か。いや、もっと大きい。馬?空から来たのは、天馬だ。天馬に乗った人。その人は、芙楽王だった。「芙楽様」女官ヒナとして、なぜ彼の名前を、姿を知っているのだろう。我ながら不思議だ。ちゃんとした理由などない。ただ、なんとなく、前世に深い縁があった、と頭で分かった。芙楽は透明な体で馬に乗っていた。クラゲのように透き通り、輪郭だけがはっきりしていた。馬にはペガサスのように大きな翼が生えていた。そんな風な天馬だ。天馬に乗って駆けてきて、芙楽は手に槍を持っている。芙楽の乗った天馬は、地上に舞い降りた。芙楽は馬上で槍を構え、私に向かって叫んだ。「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」その台詞も聞き覚えがあった。台詞が頭の中でガーンと響いた。女官ヒナとしての記憶に前世の梅妃の記憶がかぶさる。もう何が何だか分からない。でも、思った。もはや、最高の罰を受ける運命から逃れられない、と。私は芙楽を平気で裏切ったんだわ。あの戦いで、芙楽は賀の王宮に突入した。芙楽は吊り天井の罠にはまった。天井に付いた杭により、八つ裂きになって死んだ。梅妃としての私には、どうしようもなかった。その後で、馬奈を見捨てて賀に寝返った。それが死んだ芙楽にとって無念であり、「平気で裏切った」ことになるのね──。その台詞を聞き終わるや、槍の刃先が私の心臓めがけて刺そうとする。槍が心臓を突き刺した。郭貴妃の短刀はどこへ行ったのか。短刀は視界から消えた。郭貴妃の姿も見えない。短刀が体に入るよりもかなり前に、芙楽の持つ長い槍が私の体を貫いた。ああ、これでいいのね。平気で裏切った私。そんな女にふさわしい、最高の罰。女官ヒナとして、だれかを愛したことはなかった。しかし、女同士で醜いケンカをし、相手を殴りつけた。竜光皇子にも暴力をふるった。私は女官として、イケナイ女だ。この槍の一突きをもって、この世から消える。短い生涯を終えるのね。私の父。私の母。ごめんなさい。親不孝な娘で、
熱が下がり、どうにか女官の仕事に戻った。一般女官との対決に勝ち、私に敵意をむき出しにする女官はいなくなった。「ヒナ。李妃様がお呼びだ。鷺の間へ行け」私の部屋に召使が来て、そう声をかけた。午前中に詩吟の予定が入っていた。詩吟に出る李妃様を鷺の間へ案内したのは、二時間ほど前だった。「何かあったのかしら」私は首をひねった。詩吟の会はいつも二時間では終わらない。たいていお昼頃までかかるのは通例である。んだ。李妃の用事だと信じ、急ぎ足で廊下を歩いた。前から竜光皇子が一人で歩いて来た。私は頭を下げ、廊下の脇にどいた。竜光皇子は私の前を通り過ぎた。私は皇子の来た方向へ歩こうとした。まさにそのときだった。通り過ぎたはずの竜光皇子が引き返し、急に私の背後に回った。えっ!?私は狼狽した。この前、夜の庭でこの皇子は私を羽交い絞めにしたばかり──。あり得ぬことだが、その再現が行われた。竜光皇子は、またもや男の強い力でねじ伏せ、私を羽交い絞めにした。「やめてください!大声を出して、人を呼びますよ!」「フフフ。やれるものなら、やってみよ」彼は小声でうそぶいた。そして、不敵に笑った。そこへ、タタタタタと足音が聞こえた。廊下の前方からだれかが走り寄って来る。何と!相手は年を取った郭貴妃である。目を吊り上げ、こちらを睨んでいる。その手に短刀を握り締めている。両手を短刀に添え、胸の下で固定している。初老の郭貴妃は、廊下で羽交い絞めに遭っている私をめがけ、まっしぐらに走り寄る。「や、やめてー!」叫び声がかすれた。「ヒナ。いえ、梅妃の生まれ変わりめ。いざ、覚悟!」郭貴妃はたしかにそう叫んだ。郭貴妃が至近距離に近づき、目の前に短刀がキラリと光った瞬間だった。前世の記憶がワーッと見えない波になって押し寄せた。三皇子が乱立した経緯。王宮の人間関係が分断され、三つの勢力に分かれたこと、趙士良の仇討ちに遭い、前世の私が斬り殺されたこと。郭貴妃と対立し、恨みを持たれたこと。さまざまな因縁があった。だからこそ、郭貴妃親子は私を殺そうとしている。彼らは、私が因縁の梅妃の生まれ変わりだと見抜いていたのだ。まんまと郭貴妃親子の計略に引っかかった。また死ぬのか。諦めた。諦めて、目をつぶった。悲しくて、目に涙がたまった。い
女官がすっと腕を出した。反射的によけた。ふっと背後に人気を感じた。その気配は本物だった。私を後ろからがっちりと羽交い締めにした。前にいる女官と後ろの人間。二人だ。挟み撃ちに遭った。前の女官は紐のようなものを手にしていた。洗濯、あるいは裁縫の女官か。両手で紐を強くひき、水平にピンと張った紐が目の前にある。背筋がゾクゾクし、額に汗がにじんだ。女官は、いきなり私の首に紐を押し付けた。喉を圧迫され、私は喘いだ。ウッ、グ、グ。息が苦しい。女官の手をなんとか払おうとした。女官はなおも、ピンと張った紐を引いて、グイグイと喉を締め付ける。本当に苦しい。紐をどけようとするも、羽交い絞めで手が使えない。目をつぶった。これが女官のすることか。怒りがこみ上げた。タイマンなら負けないのに。涙が滲んだ。後ろで動きを封じられ、反撃できない。それでも、やってやる。怒りと悔しさが体を動かした。私は前で勢いをつけ、その反動を利用して、片足を思い切り後ろに振り上げた。「痛っ!」後ろの人間が呻いた。上手くいった。うまい具合に、足が相手の股間に入った。相手は怯んだ。私は手をほどいた。自由になった手で、羽交い絞めにした人間の頭をしこたま殴った。満月がその人の顔をうっすらと照らした。竜光皇子──。直感で分かった。王宮に来て、四人の皇子の顔は知っていた。獅雷皇子が次期皇帝の最有力候補であり、残りの三人が後塵を拝しているのを知っていた。なぜ竜光皇子が私にひどい仕打ちをするのか。そのときは全く見当がつかなかった。月光に照らされた竜光皇子の顔は醜く歪んだ。細い目が見開かれた。目つきはおぞましかった。よほど私に恨みを持っていたのだろう。皇子は股間を押さえ、悶絶していた。驚いて攻撃の手が止まった女官は、紐を捨てて私を殴りつけた。私も殴った。女同士の意地のぶつかり合いだ。お互いに数発殴り合った。しつこい女官に対し、私は相手の髪の毛を掴んで思い切り引っ張った。女官は頭髪を押さえ、悲痛な声を出した。「やめて、やめて」うろたえる女官。髪を引っ張る私。女官の訴えにかまわず、髪を掴んで引きずり回した。とどめとばかり、狙いをつけて女官の腹にパンチを見舞った。憎しみのこもったパンチは確実に女官を痛めた。三発目のパンチが女官の急所に
「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。中国の王宮は静寂を好むのか。騒がしさとは無縁のようだ。「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。姿は現生の私とほぼ変わらない。現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。夫似の召使にそそのかされた。皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちな
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし
鳥が額にぶつかって、気を失った私──まったく、そんな偶然が起きるものなのか?いたって平凡で、それまでは変わったことなど何も起きなかった私。正月に縁起がいいモノと言えば、一富士、二鷹、三なすび。あの鳥は鷹。そうではなく、もっと小さかった。小さいけれど、鋭い加速だった。私を獲物と勘違いしたみたいに、まっしぐらに飛んできた。うん。ぶつかる前のことをちゃんと覚えている。私は、何もかもを失ったわけではない。記憶がしっかりしてる。ちゃんと命もある。体も五体満足で、手足も動くし、顔も首も、上下、左右に動く。恐る恐る、手を額に持って行く。ちゃんと、額はあった。ちゃんとあるし、穴
悪い夫にはどこかで罰が下る。そう思う私は愚夫の妻。どこにでもいそうなありふれた女だ。そして、夫も平凡を絵に描いたような、普通の会社員である。夫の性格は悪い。「このクズ野郎!」私は夫に怒りをぶつけた。「なんだと。だれが稼いで飯が食えてると思ってる?」夫は居直った。「はあ? 何様のつもりなの? つまんねぇ昭和の台詞ね」「つまらなくていい。こっちには仕事があるんだ。おまえを養う義務もな」「思い上がっちゃって。そんなんで、よく浮気したわね」「浮気はしてないよ」夫は平然と否定し、首を振った。「嘘つけ! 私には分かるわ。シャツにいつもと違う香りがしたのよ」「だから言ってるだろ? 帰